遥かな空へ〜記憶の森に眠る言葉のために〜4
88/08/02
森は蒼い光で満たされていた。静まりかえった森の中には小鳥の声も風の音も聞こえなかった。
―――記憶の森 あの龍(ひと)に伝えて
遠い明日の 私に伝えて
共にゆきたかったと
あなたと共に生きたかったと―――
それは五百年間伝わらなかった長(おさ)の娘の魂の叫び。けれど、あたしが本当に伝えなければならないのはそんな言葉じゃない。彼女が本当に伝えたかったのは――
ふいに、あたしの前で光がはじけた。
一瞬目をとじたあたしがゆっくりと目をあけた時、そこに大きな湖が広がっていた。
湖は深い青緑の水をたたえていた。見ているだけで今にも吸い込まれそうな錯覚を起こす、深い深い青味がかった濃緑色の水。
その時、ふいに湖が波立った。一瞬湖の中央がせり上がったかと思うと、中から何か白いものが飛び出した。一瞬にして宙に舞い上がると、それは大きく弧を描くようにして反転した。
―――真っ白な龍。
純白の鱗と、どこか淋しげな黒曜の瞳をもった、太古の神々の一族の…。
ふいに龍の姿は消え、湖の波打ち際に龍樹(たつき)が立っていた。
あたしの中に今までとは違う想いがあふれていた。あたしのものであって、あたしのものでない想い。清木(さやぎ)と呼ばれた少女から、龍樹(たつき)と呼ばれる青年への…。
「やっと、帰ってきたね」
龍樹(たつき)の声にあたしは我にかえった。いつのまにかあふれていた涙をあわててぬぐう。
「待っていたんだ、ずっと。清木(さやぎ)の血が還ってくるのを。森の言葉だけを支えにして。あの日言えなかった言葉を伝え…君を連れていくために」
龍樹(たつき)の目があたしをとらえた。いや…あたしの中の、別の人物を。
「君が去って初めて気付いたんだ。一番失くしたくないものを失ってしまったのだと。それ以来、ずっと俺は待っていた。――共に眠ろう。この時の狭間(はざま)の湖で、ずっと…」
何か濃密な空気が流れているのをあたしは感じていた。
「…違うわ」
あたしはやっとの思いで声を絞り出した。
「『あたし』じゃない」
「同じことだ。君は清木(さやぎ)の血を引いている」
無表情な龍樹の瞳。彼は目の中にだけ表情をあらわした。けれど、今は――
ふっと龍樹の姿がかすんだ。ふいにあたしの足が土からはなれた。
「きゃ…ああ!?」
一瞬目の前の景色が大きくまわった。白い光。龍の鱗。湖水が逆立ち、巻き上がる。あたしは自分が宙に浮いているのを感じた。眼下に湖が見える。深い緑。湖面にあたしと白い龍とあたしの姿が映っている。
―――眠ロウ ココデ コノ 時ノ狭間ニ眠ル 湖デ…
現実のものであって現実のものでない湖。時の狭間で眠っている筈の、現実とはつながっていない龍樹湖(りょうじゅこ)。
記憶の森は、過去と現在をつなぐ糸だ。夢と現実の境界線の、誰の心の中にも存在して、けれど誰にもたどりつけない森。なのに、森は開いた。時の彼方からの、清木(さやぎ)と龍樹(たつき)の想いが重なったから。
あたしの中の現実感はしだいに希薄になっていった。目の端を水の壁がよぎった。湖水はまっすぐ空に舞い上がり、あたしと龍を包み込んで―――
一瞬、目の中に空がとびこんだ。
澄んだ秋の空。淡い青の光。水の輪がそれをゆっくりと覆い隠そうとしている。
遥かな空へ。心の故郷(ふるさと)へ。何もかも忘れて還れたら。…けれど…!
「やめて!!…森が伝えたのは過去よ!彼女にとっても!」
ふいにあたしは自分を取り戻した。空。帰りたい。けれど、あたしが今いるのは、今いなきゃならないのは。そして、清木が本当に伝えたかったのは…!
ふっとあたしのまわりの水の壁が消えた。一瞬にして龍から人間の姿に戻った龍樹。
「どういうことだ?」
無表情な声。けれど目はかすかな動揺を伝えていた。
「彼女はあの言葉であなたと訣別しようとしたのよ。彼女は自分の運命を受け入れられる強さをもっていた。自分の恋よりも、村を選んだのよ」
「自分自身と…俺の気持ちを殺してでもか!」
湖面がざわめいた。こらえきれないように時折舞い上がる水の柱。
「村が麓の村の中にとけこんで再出発するためには彼女が必要だったわ。彼女は過去よりも未来をとった。過去にしがみついていては何もできないわ。清木の民もそうよ。古い祖先の地を捨てて未来への道を選んだ」
あたしはあたしの中の何かがあたしの口を借りて語っているのを感じていた。それは長(おさ)の娘だったかもしれないし、あたしの血につながる全ての人々だったかもしれない。
あたしは、ゆっくりと体が下がっていくのに気付いていた。ゆっくりと、湖が近くなる。
「大切なのは過去ではなく、現在(いま)よ。この山はもう清木(さやぎ)とはいわない。あたしも、清木(さやぎ)ではなく荻上(おぎうえ)なのよ。あなたも、自分を過去の想いから解放するべきだわ。彼女はあの言葉であなたを縛りつけようとしたんじゃない。ただ、伝えたかったのよ。あなたを愛していたことを」
龍樹の目の中をさまざまな感情が流れ、そしてやがてそれらは静かな色にかわっていった。
「あたしは、それだけ伝えるために、来たの」
あたしはつぶやくように言った。あたしの中の使命感は五百年分の彼女の想いだった。けれど本当は、彼女も、清木一族の人々も、みんな帰りたかったのだろう。あたしの中の望郷心(ノスタルジー)がそれを伝えている。五百年間、ずっと清木の血は祖先の地へ還りたかったのだと。
龍樹がふっと儚(はかな)げに微笑んだ。澄み切った黒曜の瞳。それは、あたしなどが近寄れるべくもない、龍神の瞳。
「…彼女は…幸せだったか?」
龍樹が静かな声で言った。何もかもを超越したような静かな瞳であたしをみつめる。
「ええ。彼女は自分の子供に語ったわ。あなたのこと、そして自分の人生のこと。あなたに逢えただけでそれ以上何もいらないくらい幸せだったこと。そして、今の夫と家族を…自分の人生を愛していると。彼女の言葉と想いは血が伝えたわ。…確かに、あたしまで…」
あたしの中の彼女の想い。あたしの中の誰かが語っている言葉。あたしはそれを不思議だとは感じなかった。
あたしがここに来たのは。あたしの中の想いがここへあたしを導いてきたのは。全て、このためだった。森の中に眠っていた言葉を伝えるために。龍樹を過去から解放するために…。
遥かな空へ、還ってゆけたら。それは誰もが抱く想いなのかもしれない。けれど誰も時を戻すことはできないから、その想いを未来へ紡いでいくのかもしれない。過去に清木(さやぎ)一族がどこに栄えたのかは大切ではない。今、そして未来、一族が栄えていくことが真に大切なのだと。
風が静かに湖の水面をわたっていく。澄んだ深い緑の湖面に遠い空がうつっている。土へ、海へ、そして空へ。生きているものたちはどこから来てどこへ還ってゆくんだろう。そして、想いは…?
ふわっとあたしの体が揺れた。一瞬浮くように移動したかと思うと、次の瞬間には、あたしは湖のほとりに立っていた。あたしに少し遅れて、龍樹も岸に下り立った。
「…過去は、現在を縛るためにあるんじゃない。だから、あなたも…」
龍樹はふっと微笑んだ。儚げで、何かをあきらめたような――そして、満足したような、瞳。
「…ありがとう。何かがふっきれたような気がする。君は爽貴(さやぎ)という一人の人間で、清木(さやぎ)はもうどこにも存在しない。わかっていたはずなのに、認めたくなかったんだ」
龍樹の手があたしの頬に触れた。真っ黒な瞳が近づいて、そしてふっと遠くなる。
「お帰り。君が生きている場所へ」
遠くで龍樹の声がした。一瞬蒼い森が目に入り、そしてそのまま全てが遠くなった。
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