遥かな空へ〜記憶の森に眠る言葉のために〜3

88/08/02



「ね、お土産見ていかない?」
 夕食からの帰り、杏子(ようこ)が言った。
 食堂から部屋への帰り道の途中にホテル直営の大きな土産店があり、かなりの生徒が夕食帰りに寄っているようだった。
 あたしたちは中へ入ると、各自思い思いの方向へ散らばっていった。
 あたしはまっすぐ絵葉書のところへ行った。妹が絵葉書をコレクションしているため、買って帰らないと後でうるさい。実際、あたしも写真は好きだった。  あたしはめぼしいのを2つ3つ選ぶと、それを持って奈摘たちの方へ行こうとして、ふと一冊の本に目がとまった。
「清木の伝説…?」
 それは、うすい小冊子だった。あたしは何気なくその本を手にとると、パラパラとめくってみた。  清木(さやぎ)、という文字をみつけ、あたしは手をとめた。その本の中には、この高原が清木(さやぎ)高原と呼ばれていたことや、清木(さやぎ)の村の興りとその衰退がかかれていた。石灰質の土地は痩せていて水もちも悪く、清木(さやぎ)の民が村を捨てたのはもう五百年は昔のこと。
 本には、他に清木(さやぎ)が清木(しぎ)と呼ばれるようになった由縁や、観光地として再出発した様子などもかかれていた。何気なく長し読みしていたあたしは、龍樹湖(りょうじゅこ)の伝説、という項をみつけて手をとめた。
「爽貴(さやぎ)、もう買った?テレビ始まっちゃうから帰りたいんだけど」
 美知絵の声にあたしは我にかえった。いつの間にかかなりの時がたっていたらしい。
「今行く」
 あたしは大急ぎで本を閉じると、絵葉書と一緒にその本をレジに渡した。お金を払い、商品を受け取ると、あたしは大急ぎでみんなのところへ戻っていった。


 窓の外に満月が浮かんでいた。
 あたしは薄暗い部屋のベッドに一人腰掛けて本を開いていた。奈摘たちは都たちの部屋へ遊びに行っている。あたしはわざと残ったのだった。
 ―――龍樹湖の伝説。
 夕暮れの、あの光をあたしは思い出していた。もし、あれが本当に龍樹湖なら、あたしは何故そう思ったんだろう…?あたしの中に流れる血が教えたとでもいうんだろうか…?
 あたしはゆっくりと本を開くと読み始めた。

 ――昔
  真っ白であったがゆえに龍神一族から異端視された
  真っ白な龍の子がおりました。
  ある日 龍樹(たつき)というその龍は 仲間に追われて
  清木(さやぎ)の湖(うみ)へ逃げのびました。

 ―――え!?
 あたしは手から本を落としそうになったのを必死でこらえた。
 龍樹(たつき)…たつき…!? まさか!? けれどもしそうならあの不可解な行動も説明がつく…。いや、まさか!あたしは何を考えているんだろう?龍のいる筈などないではないか !!
 …けれど…。
 あたしは先を読み進んだ。

  そんな彼をみつけて手厚く介抱してやった娘がおりました
  清木(さやぎ)の村の長(おさ)の娘でありました。
  初めはひどく拒絶していた白い龍も
  しだいに娘の優しさに 心を開いていったのでありました
  すっかり傷も癒え 湖の奥深く帰ってゆく日
  龍樹(たつき)は娘に言いました
  ”我(わ)は未来永劫 汝(な)と汝(な)の一族を守らん”
  ――けれど龍は知っていたのでしょうか
  娘が本当に望んでいたのはそんな言葉ではなく
  村を捨て 家族を捨てて
  共に来てほしいという言葉だったことを…
  ――白い龍は娘への約束を守り
  幾度(いくたび)の戦火の中にも 清木(さやぎ)の民の住む村だけは
  ほんの少しの痛手もうけることがなかったそうな―――

 あたしは本を横に投げるとベッドに寝ころがった。静かに月光が部屋の中に差し込んでくる。

 ―――記憶の森 あのひとに伝えて
     遠い明日の 私に伝えて…

 あたしの中で何かがゆっくりと目を覚まそうとしているのをあたしは感じていた。
「そうよ…龍樹(たつき)。きっとあたしは知っている。あなたがどこにいるのか、あたしのこの想いが何なのか、森が、どこにあるのか…」
 あたしは目をとじた。何かはわからぬ想いがあたしをとらえていた。


 翌日の空は淡く霞んでいた。
 昨夜配られた高原地図とプリントを手に思い思いの方向へ散らばっていく生徒たち。無料で貸し出している自転車に乗っている子も多い。部屋で一日を潰す子もいるだろうが、大半は無料の周遊バスを利用しているようだった。
 あたしはホテルの玄関でバスに乗っていく奈摘たちと別れたあと、一人でホテルの裏手へとまわっていった。
 どうすればいいのか、どこへ行けばいいのか、具体的なことは何一つわかっているわけではなかったけれど、ただ、奇妙な使命感があたしをつき動かしていた。
 あたしは無意識に昨日のあの丘へと歩いていた。時折、高原のあちこちにあたしと同じ高校の制服を着た子たちがいるのに気付く。
 遠い昔、この高原に栄えたあたしの血につながる人々。彼らはどんな想いでこの土地を捨てたんだろう。そしてあの二人は―――長(おさ)の娘と白い龍は?一族が村を出る前の夜、彼女はどんな想いで龍樹(たつき)に告げたのだろう。一族のために麓の村長(むらおさ)の息子に嫁ぐのだと。
「…え?」
 何?あたし今何考えたんだろう?本にはそんなこと書いていなかったじゃない。
 それとも。こちらのほうが正しいのだろうか。あたしの中に流れる清木(さやぎ)の血が何かを伝えようとしているのかもしれない。そうだ。そもそも母があたしを爽貴(さやぎ)と名付けたのだって、ただの偶然なんだろうか?母だって清木(さやぎ)の血を引いている…。
 二人は互いに名乗らなかった。娘は湖の名をとって龍樹(たつき)と呼び、龍は山の名をとって清木(さやぎ)と呼んだ。龍と知ってなお手をさしのべた娘、娘を怖がらせまいと人の姿をとった龍…。
 ふとあたしは足をとめた。いつのまにか昨日の丘の上まで来ていた。まわりに人の気配はない。何故足がここにむかったのかはわからない。もう既にあたしの中で夢と現実の区別は失くなっていた。もしかしたら今現在、あたしは夢の中にいるのかもしれない。そう思える程、あたしの中のあの感情は全てを支配していた。
 あたしは頂上の岩に手を置いた。彼方にかすかに龍樹湖(りょうじゅこ)が見える。あそこへ行っても何も得られないだろうとあたしは感じていた。例え自然がそのままになっていたとしても、観光地と化した湖にもはや龍の棲むところはない。人間は自然保護の名のもとに本質的な自然の尊厳を踏みにじっているのだということに気付かない。
 けれどそれなら何処へ?見渡す限りこの高原に森はない。
「いいえ…森はあるわ、あたしの中に」
 あたしはつぶやくと目を閉じた。そのまま岩に置いた手をたよりに、岩の横をまわって裏へ出る。
 ふっ、と足が一段低いところに下がったのを感じてあたしは目を開けた。
 目の前に蒼い森が広がっていた。
 あたしはそのまま歩き出した。振り返ってもおそらくあの岩はないだろうとおぼろげに感じていた。


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