遥かな空へ〜記憶の森に眠る言葉のために〜2

88/08/02



 夕日を浴びて、ススキの穂は金色に光っていた。
 静かにゆれるススキの波。遥か遠くまでつづく高原。ゆるやかな勾配のある道をあたしは歩いていた。バスを降りる頃はまだかなり見られた人影も、もうどこにも見当たらなかった。ただ、金色の谷間に見える白い岩の群れが目にもの哀しくうつるだけだった。
 あたしは空を見上げた。秋の空は高く澄み渡り、どこか儚(はかな)げだった。刻々と表情をかえてゆく夕暮の景色。黄から朱へ、そして蒼(あお)へ。
 一瞬、あたしの中に不思議な想いがながれた。空を見上げるたびに感じる幻想。今のあたしは全て夢で、この世に存在するのはただ空だけではないだろうかと。人も、街も、時の流れさえもが一瞬の幻影なのではないだろうか、と―――。
 春の霞んだ空より、夏の真っ青な空より、遠い秋の空を見ているときに、あたしはかすかな望郷心(ノスタルジー)を感じる。どこか遠くにあたしたちの還ってゆくべき故郷(ところ)があるのではないだろうか。時を超え、次元を超えた、どこかずっと遠くに…。
 遥かな空へ、還ってゆけたら。全てを空白の時に帰(き)して、空間(そら)になれたなら。
 そんな感傷が心をよぎることもある。けれど、それでも。あたしの中に確かに感じられる生命(いのち)の息づき。踏みしめる土の感触、肌にあたる風。それら全てから感じられる。たとえ還ってゆく場所が他にあろうとも、現在(いま)は、あたしがいるのは「ここ」なのだと―――。
 あたしはホテルの裏手につづく小高い丘へ登る小径(こみち)をみつけて入っていった。一面のススキ原といっても平地なわけではなく、かなりの起伏があり、背の低い潅木もあちこちに生えていた。
 周囲はゆっくりと蒼(あお)くなってきていた。黄昏の空気が静かによせ、光は次第にやわらかくなってくる。ちょうど逢魔ケ刻(おうまがとき)と呼ばれる頃だろうか。一日で最も物が見えなく奈なる時間。人の輪郭はぼやけ、魔と人との区別が失くなる。昔の人は、逢魔ケ刻には外に出るなと言ったという。この時間、外を歩くのは人の姿を持った物の怪(もののけ)だと。
 丘の頂が目の前にきていた。頂上にはひときわ大きな岩があり、その横には数本の木が枝を風に揺らしていた。東の山には、もう月がかかっていた。青白く光る大きな円盤は黄昏の蒼い空気の中に溶け込んでいくようで、あたしはかすかな肌寒さをおぼえた。
 その時、ふいにあたしは目の端に何か白いものが動いたのを捉えた。逢魔ケ刻に出会うものは魔だ。そんな言葉が一瞬頭の中をよぎる。
「…さやぎ…?」
「え…っ」
 誰!?あたしを知ってる人!?あたしは今の一瞬の恐怖も忘れて振り返った。
 一瞬、高原を強い風が舞った。ススキの穂が大きく波打ち、月の影がゆらめく。
 ―――青白色の幻。
 これが、彼をみた第一印象だった。
 肩にかかる長い髪、額に巻いた組紐、そして真っ白な民族衣装らしき服。満月を背に、その姿は蒼い闇の中にただよう幻影のように感じられた。
 そこにいたのは、17、8歳の青年だった。
「…誰…?」
 あたしは無意識につぶやいていた。あたしの中のあの感情が一瞬にしてあたしの中にあふれていた。なつかしさ、愛おしさ、哀しさ。何かするべきことがあった。遠い…遠い時間(とき)の彼方から、ずっと。
 青年の目をかすめた小さな驚きの色は、ゆっくりと静かな色に変わっていった。やがて彼は小さくためしきをつくと、つぶやくように言った。
「…ごめん。驚かせたな」
 吸い込まれそうに真っ黒な瞳。あたしを見ている筈なのに――どこか遠くを見ているような、そんな、瞳。
「どこかで会ったこと…あった…?」
 あたしは我知らずきいていた。この高原を見た時以上に強い既視感。あたしは彼を知っている。いつか…どこかで…。
「いや。ないよ」
 けれど。彼の答えはそっけないものだった。今までの何かをなつかしむような雰囲気は消え、目の中には冷たい拒絶があった。彼はそれだけ言うと、ふいと背を向けて歩き出そうとした。
「待…って!でも、何故、あたしの名を知ってたの!?」
 あたしは思わず叫んでいた。ふいに、青年は足をとめた。そして、ゆっくりとふりかえった。
「君は…さやぎというのか?」
「え…え。荻上爽貴(おぎうえさやぎ)よ」
 彼はそのまま岩の上に腰かけた。
「珍しい名前だと思わないか?」
「え?…ええ、そうかしらね。祖先の一族の名をとったってきいたけど」
「さやぎ一族…」
 彼はふっと微笑むと、遠い目で高原を見渡した。
「さやぎは…清い木と書く。この山は昔、清木(さやぎ)の山と呼ばれていたんだ」
 一瞬、強い風が丘を吹きぬけた。ススキの穂が宙に舞い、高原は白くかすんで見えた。蒼白い月光の照り返しに浮かび上がる白い岩のシルエットは、まるで現実のものでないかのようにあたしには感じられた。これは、夢なのだろうか。儚く、美しすぎる幻想…。
「じゃあ…あたしがここになつかしさを感じたのは血のせい…」
 あたしはつぶやいた。ゆっくりと蒼の中に沈んでゆく高原。月が次第にその光を増してくる。遠い昔、ここに清木(さやぎ)一族が繁栄した。あたしの血につながる人々が…。
 その時、あたしの中を何かがかすめた。何か…大切な、何か。
「…ね、あなたの名は?」
 あたしは青年にむかってたずねた。
「―――たつき」
「たつき…。あのね、『記憶の森』という言葉…何か、知らない?」
 一瞬、たつきの目に何か大きな感情が動いたのをあたしは見た。驚きから―――喜び…?
「そ…うか…そうか…」
 たつきは口の中でつぶやくと、ふいに立ち上がった。
「明日、俺のところへおいで。君にはわかるはずだ」
「え…?どういうこと?」
 たつきはすっと地面に下りると、身をひるがえした。
「君は、知っている筈だ。――森を抜けて」
「―――え!?」
 あたしは驚いて彼の後を追った。けれど、彼はまるでかき消したかのようにその姿を消していた。身を隠すところなどどこにもみつからないというのに。
 あたしは木の枝につかまると高原を見渡した。どこにも彼の姿はない。
 その時あたしは山の稜線のふもとに何か月光を反射して光っているものがあるのに気付いた。何だろう、あれは。かなり遠い…水面…?
―――龍樹湖(りょうじゅこ)だ。
 何故か、そう思った。龍の言い伝えが残るという、伝説の湖。
 蒼い闇の中に、満月はその光を深めていこうとしていた。


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