遥かな空へ〜記憶の森に眠る言葉のために〜1
88/08/02
十月の空は、どこまでも青く透き通っていた。
道路沿いにつづくのススキの波はバスが通っていくのに合わせて静かに揺れ、銀色の光を放っていた。
「次、爽貴(さやぎ)の番よ」
「あ…っと。ごめん」
あたしは窓から目を離すと、トランプの輪の中へ戻っていった。修学旅行も中日となると、皆もう最初の興奮は冷め、『いつもより長い遠足』の気分になっているようだった。
「今日でやっと3日目かあ。明後日にはもう帰途についちゃうんでしょ?はやいような長いような…」
文子(あやこ)が隣の子のトランプを抜きながら言った。
「今日は4時半にホテルについて、明日は1日自由行動だって?今から行くとこ、何てとこだった?」
蓉子が誰にともなく訊いた。
「えーっと…何て読むんだ?きよ…ぎ?しきかな?清い木の高原」
「『清木(しぎ)高原。秋吉台ほどではないがやはりカルストの広大な草原で、ススキ原の中に石灰岩石が点在する景色は見事である。稜線伝いに少し奥まったところにある龍樹湖(りょうじゅこ)には白い龍の伝説が残っている』。旅行のしおり、読まなかったの?」
美知絵が日程のプリントを見ながらつまっていると、横から都がしおりを開いて言った。
あたしは再び窓の外へ目をやった。古典的トランプ『ババ抜き』も八人という大人数でやると、自分の番が回ってくるまでにかなりの間がある。
どこまでも続くススキの波。その中を走り抜けてゆくバス。山と山の間を縫うようにして道はどこまでも続いている。
あたしは一昨日九州へ着いて以来ずっと心の底にくすぶり続けている不可思議な感情をみつめていた。
何なんだろう、この想い。なつかしさとも、悲しさとも、愛おしさとも判別のつかない想い。かすかに感じる、喜びとそして切なさ。それから、一つの言葉―――
「記憶の森、か」
あたしはため息をついた。
「何それ?爽貴」
あたしの呟きを聞き取って奈摘が訊いてきた。
「わからないんだよね。一昨日あたりから妙に心にひっかかってるの。あと…何ていうのかなあ。なつかしいような、切ないっていうのか…」
「九州へ来たあたりから?…あ、わかった!きっと前世で九州に住んでたんだ!」
「あのね…」
あたしはもう一度ため息をついた。奈摘はくすくす笑った。
「冗談よ、冗談。でも、何か心当たりってないの?物心つく前に来たことあるとか」
「あたしどころか、両親(オヤ)もないの。…あ、でも、あたしの祖先はいたらしいんだよね。母方の祖母の一族は何百年か前まで、このあたりの村長(むらおさ)だったとか。何とあたしの名前って、その一族の苗字からとったっていうんだから、ひどいネーミングよね」
「じゃ、さやぎ一族っていうの?」
「こら!次奈摘の番だよ」
美知絵の声がとんで、あたしたちの会話はそこで途切れた。あたしも輪の中に入る。それでも心はずっと一つのことを追っていた。
―――記憶の森。
いったい、何なのだろう。言葉から受けるイメージ以上に、何かもっと深い意味があるような気がして仕方がない。そして、この想い。なつかしくて、哀しくて。遠い日々、遠い想い。ノスタルジーにも似た、甘く切ない想い…
―――記憶の森…伝えて…―――
ふっと、そんな言葉が心をよぎった。ふいに胸にこみ上げてくる、不思議な想い。
あたしは誰。何のためにここにいるの。帰りたい。帰れない。何故ここへ来たの。
―――あのひとが ここにいるから 記憶の森が ここにあるから
あのひとに 伝えるために…
「わあ…!見て見てえ!」
バスの中の何人かが声をあげた。そこで、ふっとあたしの思考は途切れた。
今までバスは尾根と尾根とを伝って細い山道を走っていたのが、ふいに視界を遮る山が消えて、一面の草原に出たのだ。
「きれいね…!」
文子が呟いた。遥かに続く高原、一面のススキの穂、点在する石灰の岩…
そのとき、ふいにあたしの心を何かがよぎった。既視感(デジャヴュ)…?あたしはこの風景を知っている?写真じゃなくて…あたしじゃなくて…もっとずっと遠い昔…
―――さやぎ
「え?」
あたしは名を呼ばれたような気がして振り返った。
「何?誰か今あたしの名前呼ばなかった?」
「は?別に誰も言ってないけど?」
都が答えた。他の子たちも同様にきょとんとした顔をしている。
「空耳かな?」
あたしはたいして気にもとめずに再び窓の外に目をやった。どこまでも続く空はかすかになつかしい色をしていた。
清木(しぎ)レークホテルに着いたのは4時すぎだった。団体写真を撮り、各自の部屋を探すと、もう時間は5時に近くなる。
あたしはボストンバックの中からハンドバックを出して必要なものを入れると、窓をあけた。夕日が山の端にかかり、西の空を黄金(こがね)色に染めている。
「奈摘、夕食の集合って何時だっけ?」
「え…っと、7時に食堂」
「じゃ、あと1時間は余裕あるわけよね。あたし、そのへん散歩してくる」
「暗くなるまでもう30分くらいしかないと思うよ」
奈摘がベッドに寝ころびながら言った。
「うん、そんなに遠くまで行かないと思う。ただ、…あの、バスの中で言ってた感覚がね、ここへ来て何かかわってきてるの。どうしてこんな気分になるのかどうしても確かめたいから…」
だからと言って、本当にここに何かあるのかどうかなんて、あたしにはわからない。けれどあの想いは強くなる一方で―――そして、奇妙な使命感までもがあたしの中に生まれているものだから。
「気をつけてね」
奈摘の声をききながら、あたしはドアを閉じた。
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